無外流
無外流とは、1693年に流祖・辻 月丹が創始した剣術(剣法)の流派です。
現在では、主に居合の稽古がされています。我々無外流明思派では、居合(形)・組太刀・試斬を三本柱とし、真の斬れる居合の習得を目指しています。
稽古内容
居合(形)
主に、無外流居合兵道の形稽古を行います。
始めは、刀に慣れることから始まり、20本ある形の手順を覚えます。
それから、徐々に体の使い方などを修練していきます。
居合の形
五用(ごよう) | 五箇(ごか) | 五応(ごおう) | 走り懸り(はしがかり) |
---|---|---|---|
真(しん) 連(れん) 左(さ) 右(ゆう) 捨(しゃ) |
水月(すいげつ) 陰中陽(いんちゅうよう) 陽中陰(ようちゅういん) 響き返し(ひびきがえし) 破図味(はずみ) |
胸尽し(むなづくし) 円要(えんよう) 両車(りょうぐるま) 野送り(のおくり) 玉光(ぎょっこう) |
前腰(まえごし) 夢想返し(むそうがえし) 廻り懸り(まわりがかり) 右の敵(みぎのてき) 四方(しほう) |
この他、内伝と奥伝の形があります。
組太刀
一人で形の稽古を行っていると、敵の動きなどを意識した動きが分からなくなり、武道の形のはずが踊りと変わらなくなってしまいます。
そのため、木刀をもって二人一組で立ち会う組太刀稽古を行うことによって、敵の間合いを習得します。
組太刀の形
太刀 | 小太刀 | 無外流剣術 (剣法) |
四通 | 八通 |
---|---|---|---|---|
北斗 太白 稲妻 霞 流星 |
切留 突留 受流し 切上 位詰 |
獅王剣 翻車刀 神明剣 水月感応 玉簾不断 |
受流 咽中 三受留 突出 |
相寸 相寸(逆) 鷲 左輪 乳拂 受返 二刀合 擦込 |
試斬
居合の稽古で形を振っていると刃音がして、意識の上では斬れたつもりでも、実際には斬れていないことが多々あります。
ただ、刀を振るだけではなく、斬れる刀の振り方を習得するため定期的に試斬の稽古を行っております。
段位
無外流居合兵道の段位は、3級から始まり2級、1級と審査を受け、その後、初段から順に段位が上がっていきます。目安として、約1年程度で初段を取得いたします。
無外流居合兵道の修道の程度を、ひとつの屋敷に例えると以下のようになります。
初段 | 屋敷の「門」の前に辿り着いた処 |
---|---|
弐段 | 門番に頼み込んで「門」の中に入れてもらった処 |
参段 | 門から屋敷の玄関まで歩いている処で、玄関までかなり遠く奥行きがあり、相当広い庭のある屋敷だなぁと感じている処 |
四段 | やっと玄関に辿り着いた処 |
五段 | 建物内に声をかけ、玄関詰めの使用人を呼び建物内に入れてくれるようお願いしている処 【奥入書】 |
六段 | なんとか建物内に入れてくれ、部屋に案内されている処 |
七段 | 部屋に通され、お茶が出た処 【免許】 |
八段 | 屋敷の主人が出てきて、話をし始めた処 |
九段 | 屋敷の主人に認可され、屋敷内の道場で門人たちと稽古をしている処 【免許皆伝】 |
十段 | 屋敷の主人に指導してもらっている処 |
流祖・辻月丹について
宮本武蔵没後三年 流租誕生
無外流の流租は辻月丹資茂(すけもち 幼名:兵内)。
日本人だけではなく、世界的に有名な宮本武蔵が没して三年。
慶安元年(1648年 徳川家光の世)に誕生しました。
生誕の地は近江の国甲賀郡 宮村字馬杉。
13歳の時京都に出て山口流の山口卜真斎につき、その後13年に渡り山口流剣術を学んでいます。
この間愛宕山に祈誓したり、北陸越後のあたりを武者修行で回るなど、すでに戦国の気風もどこかへ過ぎ去り、間もなく元禄を迎えようという当時の時勢を考えれば相当風変わりで遅れてきた感があったのではないでしょうか。
26歳、山口流免許皆伝江戸へ
26歳の時兵内は師匠より山口流の免許を認可されました。
同時に江戸出府を許され、 麹町九丁目に道場を構えることになります。掲げた看板は山口流兵法。
しかし、名もない田舎兵法者として相手にされず、わずかばかりの弟子と稽古し、修行をしたと言います。
無外流と禅、その入口は麻布吸江寺
無外流と禅が切っても切れない関係になるその出会いがこの頃。 兵内は、学問と心の修養の必要を感じ、麻布吸江寺の石潭禅師に師事したのです。
学んだものは禅学と中国の古典。
その後石潭禅師が遷化されたため、続けて第二世・神州和尚について参禅。
元禄の江戸に無外流、誕生
45歳の時悟りを開き、神州和尚は師石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えました。
一法実無外(一法実に外無し)
乾坤得一貞(乾坤一貞を得)
吹毛方納密(吹毛まさに密に納む)
動着則光清(動着すれば光清し)
これにより、兵内を改め月丹資茂(げったん すけもち)と名乗りました。
また、流名を偈よりとり無外流としたのは、元禄6年(1693年)。
ここに無外流が誕生することになりました。
元禄最大の事件、赤穂浪士の吉良邸討ち入りが元禄15年ですから、事件の9年前のことです。
剣禅一致の人として
20年の参禅により、一介の剣客でなく、剣者と共に禅者でもあり、学者でもあった月丹は、吸江寺を訪れる大名とも対等に語る事ができたと言います。中には小笠原佐渡守長重、厩橋の藩主・酒井勘解由忠挙、土佐藩主・山内豊昌等がいました。
鮮やかな抜きつけの一刀自鏡流居合
居合は多賀自鏡軒に学びました。
師の山口卜真斉が江戸を訪れた際に、その求めに応じて居合を披露、灯明の火を抜きつけの一刀で三度消して師を驚かせたぞうです。
ときに34歳と言いますから、並大抵の方ではなかったのでしょう。
大名が学ぶ流派として
元禄9年から宝永6年(1710年)まで14年間の誓詞によると、月丹の弟子は、万石以上の大名32家、直参156人、陪臣930人。この数字は押しも押されもしない、大名が学ぶ流派となっていることを示しているでしょう。
しかし一探求者としての人生を希望していた月丹自身は、大名家から、師範役として迎えたいとの度々の申し出を断り、厩橋藩(後年姫路藩に転封)酒井家には月丹の甥無外流第2代辻右平太を、土佐藩山内家には月丹の養子で無外流第3代、後継者の都治記摩多資英を推挙し、師範役としました。また伊勢崎の酒井家(分家)磯田某も右平太に学び、その流れは挙母藩(ころもはん、現在の豊田市)の内藤家に伝わりました。
月丹61歳の時、酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として5代将軍 綱吉に謁見の許可が出たが、不運にも綱吉死去により実現しませんでした。しかし、一介の浪人剣客に御目見得の許しが出た事は当時破格の出来事でした。
無外真伝剣法訣
剣者であり、禅者でもあった月丹は、剣と禅は一如であるとし、その内容・文章 の充実さに於いて一流とされます。月丹が著した伝書「無外真伝剣法訣並序」の末文に、「右無外真伝の剣法は禅理をもって教導致すところ、貴殿禅学御了知の上当流の剣法御懇望且つ御篤志につき…」とあり、門弟達にも参禅させ、禅学了知の上でなければこの「無外真伝剣法訣並序」を授けなかったようです。そしてその内容も禅語で表されています。月丹の没する三ヶ月前の姿は、袈裟を掛け、手には払子を持った高僧の姿で描かれているといい、また別の画には袈裟を掛けた姿ではありますが、右手に木刀を持ち、眼光鋭い剣者月丹が描かれています。
こうして家庭もつくらず一生を不犯で通した月丹は、享保12年(1727年)6月13日、 禅学の師・石潭禅師と同月同日、座禅を組み、念珠を左手、払子を右手に持って一生を閉じたといいます。ときに79歳。
遅れてきた剣豪ですが、武人として大きな足跡を現代まで残すことになりました。
流租の教えが全国に広がった
江戸麹町に始まった無外流は、弟子として大名自身が学んだことから全国に広がりました。
辻月旦自身は一探求者としての生涯を望んだため、大名の嘱望に対して優秀な弟子を指南役として推薦、各地に招かれていくことになったのです。
無外流では、合わせて自鏡流の居合をやっていました。
その自鏡流居合をやっていた者のほとんどが無外流の人たちだったため、三代都治記摩多資英の伝書には「無外流居合」と書かれるようになりました。
こうして全国に広がった無外流の江戸時代の系譜をご紹介します。
酒井家
における系譜辻月旦の甥、辻右平太に始まる系譜。
辻右平太は盲目でありながら、剣の狂いのないことをうたわれた達人でした。
徳川家における三河家臣団の名門、徳川四天王の家、酒井家本家の酒井忠挙(ただたか)の指南役。
その道統は次の室賀官八に移り、姫路藩に転封となったことから、姫路に無外流は伝わることとなりました。
しかし、この道統はこの室賀官八で途絶えてしまいます。
姫路の系譜が復活するのは寛政年間
酒井家江戸屋敷に生まれた高橋八助充亮からです。
元々この高橋八助が無外流を学んだのは、11代藩主酒井忠以(ただざね)の自鏡流居合の稽古相手に選ばれたことが発端です。
当時の居合が、型中心ではなく、組太刀を主軸にしていたのではないか、と推測されます。
しかし、姫路の自鏡流居合も一部失伝していたために、藩主の命で高橋八助充亮は江戸の都治文左衛門資賢、都治記摩多資幸に学び、無外流を修めることとなりました。
この高橋八助に始まる系譜は、その後も高橋家に連綿として伝えられました。
後、明治から昭和初期の剣道家で「警視庁の三郎三傑」と言われたうちの一人、高橋赳太郎から中川士竜(石井悟月記載ママ)に伝えられ、この系譜が現代の無外流では有名な塩川先生や岡本先生、そして新名玉宗明思派宗家に繋がっています。
酒井分家(伊勢崎藩;群馬県)における系譜
江本家酒井忠挙の弟酒井忠寛が治める伊勢崎藩。
磯田藤太夫邦道が同じ上野国(群馬県)厩橋藩の指南役として招かれた辻右平太に学び、無外流を治めました。
この系譜は磯田の弟子の栗原家が連綿と継ぐこととなりました。
内藤家(挙母(ころも)藩;愛知県)における系譜
酒井分家に無外流を伝播させた磯田藤太夫邦道の息子、磯田三平邦武はその父に無外流を学びました。
長じて同じ群馬県の安中藩主内藤丹波守に剣術指南役として仕えましたが、藩主は三平を海老名姓に改めさせます。
海老名三平は『挙母2万石に過ぎたるものは、大手御門に海老名三平』とまで言われるほどの達人であったようです。
挙母藩の系譜は代々三平を名乗った海老名三平の家によって連綿と伝えられました。
山内家(土佐藩;高知県)における系譜
土佐藩4代藩主山内豊昌の強い希望で、辻月旦は養子都治記摩多を指南役に推挙しました。
都治記摩多は、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ;東京都府中市)の大宮司であった猿渡豊後の息子です。もとの名前は猿渡文五郎。
土佐藩の森下権平、手島早太、土方三丞が江戸で無外流を学び、国元で指南役として伝播させました。
この無外流土佐土方派からは、明治に「警視庁の三郎三傑」と呼ばれた一人、川崎善三郎が出ました。
中興の祖 中川士竜申一
無外流を整理し、「中興の祖」と呼ばれるのは高橋家から継承した中川士竜申一です。(敬称略;竜の記載は石井悟月先生の記載による)その師は高橋赳太郎。
すでに自鏡流居合は無外流居合と呼ばれていたようです。
この高橋伝の無外流の形は孫の高橋秀三と中川士竜に受け継がれました。
中川士竜は戦後、無外流の整理編纂を図り、「無外流居合兵道」として普及させました。「無外全書」「無外真伝兵道考」を著すなど、現在の隆盛の基礎を作ったと言えるでしょう。
無外流居合兵道考
中川士竜にインタビューしたとされるものの中には、師の高橋赳太郎の紹介で土佐土方派の川崎善三郎の指導を受けたことがある、と記載があると言います。
高橋伝とは違う系譜の技も編纂し、無外流居合兵道として整理、現在に残したと推測されます。
私たちが今日無外流を系統だって学べるのは、中川士竜の足跡あってのことと言えるでしょう。
姫路藩酒井家の系譜の後継者
姫路藩酒井家の系譜を整理した中川士竜の後継者については、裁判も行われるほど紛糾したことが知られています。
その関係で現在はいくつかの道統が存在することとなりました。代表的なところでは、石井悟月善蔵の系統、塩川寶祥照成(ほうしょうてるしげ)の系統、中川士竜の晩年に皆伝を授かった師範たちの道統、そしてその皆伝をさらに授かった新名玉宗明思派宗家の道統。さらにここから分派した系譜や皆伝を得ることなく分裂したグループに至っては悲しいことですが枚挙の暇がありません。
無外流の系譜
初代 | 辻 月丹 資茂 | 1648年〜1727年 | 無外流祖 江戸 |
第二代 | 辻 右平太 | 〜1742年 | 江戸 |
第三代 | 都治 記摩多 資英 | ~1761年 | 江戸 |
第四代 | 都治 文左エ門 資賢 | ~1787年 | 江戸 |
第五代 | 都治 記摩多 資幸 | ~1812年 | 江戸 |
第六代 | 高橋 八助 充亮 | 1750年~1809年 | 姫路藩 |
第七代 | 高橋 達蔵 充玄 | 1784年~1835年 | 姫路藩 |
第八代 | 高橋 八助 成行 | 1816年~1880年 | 姫路藩 |
第九代 | 高橋 哲夫 武成 | 1830年~1876年 | 姫路藩 |
第十代 | 高橋 赳太郎 高運 | 1859年~1940年 | 大日本武徳会 |
第十一代 | 中川 士龍 申一 | 1896年〜1981年 | 居合道連盟 |
免許皆伝者 | 中谷 臣志 | ||
免許皆伝者 | 白井 亮太郎 | ||
免許皆伝者 | 戸田 誠寿 | ||
免許皆伝者 | 岡本 義春 | ||
免許皆伝者 | 小西 御佐一 | ||
免許皆伝者 | 長沢 正夫 |
中川先生は石井悟月先生に第12代宗家を継承させた後、諸事情で石井先生が中川先生のもとを去った為、残った門下の中から次の宗家を決めずして亡くなりました。この為、免許皆伝を受領した人や免許を受領した人達が勝手に「何代宗家」と称していますが、残った中川先生の門下の中で、全日本剣道連盟・全日本居合道連盟・日本居合道連盟や日本全国で無外流を稽古している独立団体の総ての人達が認める「第何代宗家」といわれる宗家はいません。
それぞれ、〇〇派宗家というのが正しい呼称です。
無外流最大の一門を形成する各会で一般財団法人無外流を形成
この新名玉宗を宗家にいただく一門は無外流最大級の大きさです。一般財団法人無外流を各会が会員として形成することで、各会の指導活動や普及活動をしやすくしました。
関東から全国、世界へ普及させた新名玉宗明思派宗家の門下は
一般財団法人無外流は、他流派や、財団に参加していない無外流諸派を攻撃しても意味がないことだと考えます。日本人が拠って立つべきアイデンティティである武士道を後世に伝え、100年後にも無外流を残すためには、自分が日々研鑽し、修行を続けることが重要です。財団はその公共性を持つ会員各会を支援します。また、一般財団法人無外流の会員になることを希望する会を受け入れます。
先達の努力を知り、ひたすらに学び、修めましょう。
居合とは「出会いがしらの一撃で勝負を決する剣」
「居合とは何か」を居合をしたことがない方でもわかるように考えてみましょう。
平成六年警察博物館で開かれた『警察のはじまり、特別展』が開かれました。その際、初代大警視(警視総監)、『日本警察の父』川路利良と、その部下斉藤一について、警視庁広報課で、元警視庁剣道助教西尾俊勝さんが調べた警視庁に残る記録によれば、斎藤一は無外流であったということです。
新選組三番隊組長斎藤一は無外流の大先輩であったとすれば、いかにも、と思われる歴史上のシーンがいくつもあるでしょう。その斎藤一を居合の使い手として描いた小説があります。
その一つ、文豪浅田次郎先生のその名作「一刀斎夢録」の中では、居合を「出会いがしらの一撃で勝負を決する剣」と表現されています。
剣を抜いて「さあ来い!」と構える立ち合いと違い、刀は鞘のうちにあります。 ここから抜き打ちで斬れるのが居合というのですから、普段稽古する形のままに実際に斬れなければなりません。
一般財団法人無外流に加盟する無外流明思派各会の特色「斬れる居合」は実際に形、それも抜き打ちで斬れなければ意味がないという、ここからきています。
さて、無外流の特色として中川士竜先生が紹介したエピソードを以下まとめてみましょう。
真剣勝負の気合「剣を学ぶなら月旦」
水戸藩分家、守山藩主松平頼定が流租辻月旦に、無外流は真剣勝負の気合で稽古をする旨を問いただしたと言います。
稽古を望む頼定の相手に、月旦は弟子の杉田庄左右衛門にさせました。
三度の打ち込みをとられ、最後は組みついたと言います。
その後、頼定は若い大名に「剣を学ぶなら月旦がよろしかろう。 しかし月旦は最初から手ごわいので、とても長くは続けられまい」と言ったそうです。 真剣勝負を想定している、という武道の基本がよく伝わるエピソードではないでしょうか。
「敵によって転化をなすは兵法の定理なり」
辻月旦の存命中の無外流は素面、素篭手による剣術が主、その中に居合を取り入れたと言います。
仇討のために居合を学ぶものには、抜きつけの初太刀のみ教えて、ひたすらにその鍛錬をするよう求めるなど、常に真剣勝負が前提でした。
このような姿勢はその後も受け継がれ、土佐に伝播した系譜の無外流土方派の中でも有名な、警視庁「三郎三傑」の一人川崎善三郎は「形なんか覚えんでもええんじゃ」と言っていたそうです。
これは極端なたとえであったでしょうし、居合形を軽視するものでもないでしょうが、形に縛られてはならない、その場その敵に従って応じられなければならない、ということのようです。
言ってみれば、「〇〇な場合」「〇〇された場合」とことこまかにマニュアルのように規定するのではなく、その場に応じて変化できる無外流の姿勢を表したものだと思われます。
「敵によって転化をなすは兵法の定理なり」
私たちは手順に縛られるのではなく、形の本質は何なのかに迫る姿勢を持たなければならないのでしょう。
「無外流は最も実戦的な居合に見える」
こういった真剣勝負を想定し、装飾を省いたシンプルな動きに、「今まで居合はたくさん見たが、無外流は最も実戦的な居合に見える」とおっしゃったのは、実戦空手として有名な極真会館創始者の故大山倍達総裁です。
この実戦を生涯追い求められた方が、そのシンプルな無外流を認められたことを私たちはうれしく思います。また、それを次世代にも伝え、その伝える中で心身ともに健全なたくさんの継承者たちを育成することを財団に加盟する各会は重要な責務だと考えています。